【3000文字チャレンジ】紀貫之のディスり方ハンパないって!!古今和歌集の「仮名序」が色んな意味ですごい!!

3000文字チャレンジ! お題:「和」
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どうも、和を愛するサラリーマン、やーさんです。
さてさて3000文字チャレンジです。お題は「和」。
まさにぼくの為に用意されたお題ではないかと自分では思いながらも、何を書こうかと思案に暮れている間に幾星霜。
お題が出題されてから、大幅に遅れての過去問への挑戦となっております。
まぁ、そんなことは気にせずさっそく本題にいきましょう!
最近、自身のtwitter上でも「#写真と和歌」なんていうハッシュタグを付けて、自身で撮った写真となんちゃってな和歌を投稿して悦に浸っております。
このブログでも、10記事に分けて百人一首をまとめるなど、一般の人と比べると和歌に対して愛情を持ってはいると自負していますが、それでも和歌に対する知識や、詠む際の技術なんていうのはヒヨッ子もいいところで。
というのも、実は和歌に興味を持ち始めたのはここ数年のことなんですよね。
学生時代に百人一首を覚える、みたいな宿題が出たときも3首くらいしか覚えなかった記憶が・・・笑
しかも徒然に文献を読んだりするくらいで、誰に師事を仰ぐこともなく、独学なのです。
なので、いつもTwitterで仲良くしてくれているフォロワーの皆さんや、この記事であったり過去の和歌に関する記事を読んでくださっている方たちに対しても、大きい顔はできないのが実情であったりします。
そう、基本的には何者でもないのですよ。
(たまにぼくのことを何者なんですか?と興味を持って聞いてきてくれる方がいたりするのです笑)
ただ「好きこそものの上手なれ」、という言葉は好きなのでこれからも「和歌が好きです」、と正面切って公言していきたいと思います。
で、今日は和歌に関してステキだなぁ、おもしろいなぁ、と感じたことをご紹介しようかなと思いまして。
今回取り上げるのが、平安時代の905年に作られた「古今和歌集」。
その中でもご紹介したいのが、和歌そのものではなく、「仮名序(かなじょ)」。
仮名序は撰者の一人である歌人・紀貫之によって書かれた序文なんです。
漢文ではなく、ひらがなで書かれたので仮名序と呼ばれます。
和歌の本質や起源・技法・歴史、また古今集の編纂の経緯などについて論述されているのですが、出だしからとても美しい言葉によって「和歌とは何か」ということが説かれます。
ちょっと見てみましょうね。
(この記事では「新潮日本古典集成」を参照します。)
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やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。
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平安時代に書かれた言葉なので、ちょっと分かりにくいところもあるかもしれませんが、だいたいの意味は掴めると思います。
ですが、ここでもう少し書いてある意味を掘り下げて読んでいくと、更にこの文章のすばらしさが見えてくるかと思いますので、現代語訳してみましょう。
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和歌は、言ってみれば人間の心を種として生い繁った、たくさんの言の葉だと言えるだろう。
この世に生きている人間はさまざまな出来事に関わるものなので、その折々の心情を、見るもの聞くものに託して言い表すのである。
(春に)花に鳴く鶯、(秋に)水にすむ蛙(=カジカガエル)の声を聞けば、生きている全てのもののうち、何か歌を詠まないものがあるだろうか(いや、全てのものが歌を詠む)。
力も入れずに、天地の(神々の心を)動かし、目に見えない恐ろしい神もしみじみと感慨にふけらせ、男女の仲も親しくさせ、勇猛な武人の心をも慰めるのは和歌である。
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といった感じになります。
和歌の本質を植物に例え、人が季節の風物詩や様々な物事を見ること、聞くことによって心の種から育った枝にたくさんの言の葉が繁っていく。そしてその言葉を和歌にすれば、どんな人々やどんな神々の心をも動かす力があるのだ、と書いてあるわけですね。
文中に出てくる鶯は春を、蛙は秋を表現していて、つまりは年中その季節ごとに素晴らしい物があり、そういったものに触れることによって、心の種からは枝が伸びて言の葉が生まれるということです。
四季に恵まれた、日本の美しさを表現している一文だと感じますね。
ちょっと補足ですが、春を代表する鳥である鶯はみなさん知っての通りの美しい鳴き声ですよね。
その対として文中に出てくる蛙。
その蛙は「カジカガエル」を表していると文献には載っていました。
カジカガエルは夏~秋にかけて鳴くそうです。
まるで鳥の鳴き声にも聞こえる、美しい鳴き声を持っています。
興味がある方は「カジカガエル 鳴き声」で検索してみてください。
透き通った素晴らしい鳴き声ですよ。
仮名序はこの後も美しい文章で、和歌に関しての分類や技法などについて述べられていきます。
終盤には、「和歌は奈良に都が営まれた時代から広く普及した」という話が出て、その当時の帝(ならの帝=平城天皇か?)と、歌聖・柿本人麻呂と山部赤人が紹介されます。
そして、その後に
「万葉集以降の今の世では、歌や古いことに精通している人も少ない」とか
「とは言え、ここで身分の高い人々の歌を論評するのは軽率なことなので差し控える」など、
ごちゃごちゃと言ったあとに出てくるのが「六歌仙」と称されることになる人たちです。
僧正遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主、この選ばれし6人。
六歌仙と呼ばれるだけあってそれぞれに歌の名人ですが、「身分の高い(高位な)人々のことは論評しない」と述べた通り、位はそこまで高くないそうです。へぇぇー。
そして、この六歌仙の紹介が、なんとまぁ・・・ディスりが激しいというか、何というか。。
多くの人が歌を詠んでいた時代に、たった六人だけが選ばれた名人中の名人ですよ?
もう、「この歌のここが素晴らしい!!」とか、「この技法最高過ぎっ!!天才!!」とかもてはやされそうなものじゃないですか。
全然、、全くそうじゃないんです。
この六人の紹介文見て、「・・・紀貫之って性格悪かったのかな。。。」と思っちゃいましたからね。
ここまで言われるその紹介文、気になるでしょう?
分かりやすいように、文献で紹介されている現代語訳を元に書きますね。
では、さくっと見ていきましょう。
僧正遍昭
歌の形式は整ってるが、真情の発露という点では物足りない。
例えるなら、絵に書いてある女を見て、無意味に心を動かすかのようだ。
在原業平
情感が溢れすぎてそれを表現する言葉が足らない。
しぼんだ花の、色は褪せたのに香りだけが残っているようなものだ。
文屋康秀
言葉巧みではあるが、その様は身についていない。
言うなれば、商人が身に合わぬ上等すぎる服を着ているかのようである。
喜撰法師
言葉づかいが微妙過ぎて、首尾がすらりと一貫していない。
秋の月を見る場合に例えれば、月が出た直後は鮮やかに見えるものの、暁の頃になって雲にさえぎられるようなもの。つまりは初めの方はよく分かるが、後の方がよく分からない。
詠んだ歌があまり多く伝わってないから、あれこれ見通して批評することができない。
小野小町
いにしえの衣通姫(そとほりひめ)の流派。
(衣通姫は第十九代允恭天皇の妃。本名は弟姫。容姿に秀で、麗色が衣を通して照り輝いたところから衣通姫と呼ばれる。)
小野小町の詠む歌はしみじみとした情趣をそなえている。
言うなれば、高貴な女の病んでいる感じに似ている。たおやかな歌は女性歌人ならでは。
大伴黒主
そのさまみすぼらしい。言うなれば、薪を背負った木こりが花の陰で休んでいるようだ。
・・・
・・・・・
いかがでしたでしょうか。
ねぇ?
ちょっとひどくなーい??
そんなけちょんけちょんに言う必要あるのかな。
こいつら歌うまいけど位低いから、これくらいの評価でええやろ、的な。。。
小野小町だけが、ちょっと甘い評価な感じがしますよね。
女には弱いのだろうか、貫之よ。。
喜撰法師とか、「伝わっている歌少ないから~」って、、じゃあ、なんでそんなのをTOP6に選んだんや!!
ってかもう大伴黒主なんか、100%ディスられてんじゃん!!
こんな書き方されてたら、絶対泣いちゃう!!
だってさ、想像してみてよ!!
黒主「おっ!なんやなんや。わいの歌が優れてるからって上位6人に選ばれたってか!!おほぅ!!これは嬉しい!!さてさて、どんな風に褒めてくれているのやら。どれどれ・・・。
”そのさまみすぼらしい。言うなれば、薪を背負った木こりが花の陰で休んでいるようだ”。
・・・なるほど、なるほど・・・。ってこれただの悪口やんけーーーー!!!ぐぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ーーー!!!許せん許せんぞー!!紀貫之ぃぃぃぃぃぃ!!!!
ってかこれのせいでわい、歌仙の中で唯一百人一首に歌選ばれへんかったんちゃうんか??お゛お゛お゛お゛お゛お゛ぉぉぉ!!」
ってなっちゃうよね!?
何なのこれwwwひどくない!?www
おっと、ついつい感情移入してしまい取り乱しました。失礼失礼。
そんなこんなで、この序文を知った後は紀貫之に対して、以前とは少し違う感情を抱くようになってしまったぼくです。
他にも仮名序の魅力はたくさんあります。
ぼくの読んでる文献では「古注」(紀貫之が書いた文に対して、後人が施した注記のこと)も掲載されているのですが、これがまたおもしろい。
例えば、紀貫之は「和歌には六種類ある」として、それぞれの種類に対して、例になる和歌を挙げているのですが、
「いやいや、紀貫之はこう言ってるけど、それは違うと思う。こっちの歌の方が相応しいだろう。」
「なんでその歌を例にあげたのか、その気持ちが全く分からない。」
「この歌はその条件には全く合わない。全然ダメ!!」
みたいな感じでダメ出しのオンパレードなんです。
居丈高に、人のことを論評していた紀貫之も、後世では自身が論じた説をバッサリと切られてるんですよね。
そんな切って切られての部分もおもしろいなと感じるのです。
もちろん、冒頭で紹介したように美しい表現もたくさん出てきますので、そういった言葉に触れることも心の栄養になると思います。
心の種から枝を伸ばし、言の葉を紡ぐことは素敵なことですよね。
皆さんも、興味を持たれたら一度「古今和歌集」の「仮名序」、ご覧いただければと思います。
そして合わせて素晴らしい和歌の数々もお楽しみください。
ではでは、今回はこのへんで。

最後までお読みいただきありがとうございました!
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