優美な和歌の世界 小倉百人一首を楽しむ!其の十

優美な和歌の世界 小倉百人一首を楽しむ!其の十

どうもー!やーさん(@ohokamudumi)です。

現代ではTwitterの140字の中でうまいこと言った人が人気を集めるわけですが、

古来より5・7・5・7・7の31文字で人の想いや儚さ、四季の移ろいなどを見事に表現しているのが和歌です。

数々の歌が千年以上経った現在でも人々の胸を打ち続けている。これってすごいことじゃないですか!?

ということで、最も有名な和歌集である小倉百人一首に収められている歌を改めて鑑賞してみたいと思います。

今回でラスト!91-100番!!いってみましょう!

 

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優美な和歌の世界 小倉百人一首を楽しむ!

 

91、きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣片敷き ひとりかも寝む 

きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねむ

 

後京極摂政前太政大臣

きりぎりす(こおろぎ)が鳴いている、こんな霜の降る寒い夜に、むしろの上に衣の片袖を敷いて独りさびしく寝るのだろうか。

 

やーさん

平安時代、男と女がともに寝る際には、お互いの着物の袖を枕にして敷きました。この歌では、自分だけの衣が敷かれているということで、さびしい男の一人寝の様子が描かれています。秋の淋しさを演出するこおろぎの声、藁などで編んだ粗末な敷物であるむしろ、自身の衣と道具立てが揃っている巧みな歌ですね。

 

後京極摂政前太政大臣は藤原義経です。76番歌の藤原忠通の孫にあたります。

藤原俊成・定家より和歌を学び、早熟の天才でしたが38歳の若さで急逝しました。

 

 

92、わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし

 

二条院讃岐

私の袖は、潮が引いた時でさえ見えない沖の底にある石のようです。他人は全く知らないでしょうが、涙に濡れて乾く暇さえありません。

 

やーさん

和泉式部の歌である「わが袖は 水の下なる 石なれや 人に知られで かわく間もなし」の本歌取りです。自身を沖の海底にある石に例えた、恋に涙する女性の切なさを詠んだ歌ですね。

 

二条院讃岐は源三位頼政の娘で、二条天皇に仕えました。

この歌から、「沖の石の讃岐」と呼ばれました。

 

 

93、世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも 

よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのこぶねの つなでかなしも

 

鎌倉右大臣

この世の中は常に変わらないであってほしいものです。渚を漕いでいる漁師の小舟が綱に引かれる、そんなごく普通の情景が切なく心にしみるものだから。

 

やーさん

伊豆か鎌倉の風景を見て詠んだと言われる歌です。世の中は無常であるということを知りながらも、自然と人々の暮らしが寄り添う穏やかで美しい景色がいつまでも続いてほしいと願った優しい歌ですね。

 

鎌倉右大臣は源頼朝の四男の源実朝です。12歳で征夷大将軍となり、27歳で右大臣となりました。

定家から歌を学び、非常に繊細で鋭い感性と才能、そして優れた人柄の持ち主でしたが、鶴岡八幡宮参詣の帰りに甥の公暁に暗殺されてしまいました。

 

 

94、み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり

みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり

 

参議雅経

吉野の山の秋風が吹きおろし夜も更けてきて、かつては都であったこの里に、衣を打つ音だけが寒々と聞こえることだ。

 

やーさん

中国・唐の詩人李白の詩に「長安一片月 万戸擣衣声 秋風吹不尽 総是玉関情…」という有名な詩があります。この詩の中の擣衣(とうい)とは砧という丸太に柄のついたような棒で衣を叩き、光沢を出す作業のことで静かな秋の夜に各家庭からこの音が聞こえてきて風物詩となっていたそうです。その詩を踏まえて、かつて離宮があり栄えていた吉野の里が今はもう古びてしまい、衣を打つ音だけが聞こえてくるよと、寂寞とした情景を詠んだ歌となっています。

 

参議雅経(藤原雅経)は、藤原頼経の三男で、新古今和歌集の撰者の一人でもあります。

蹴鞠の元祖である飛鳥井家の先祖です。

 

 

95、おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に すみぞめの袖

おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで

 

前大僧正慈円

身の程もわきまえないことであるけれど、このつらい憂き世を生きる民たちを包んで覆ってあげよう。この比叡の山に住み始めた、私の墨染めの袖で。

 

やーさん

若き日の慈円が、仏の力を持ってこのつらい世の中に生きる民を救おうという意気込みを込めて詠んだ歌です。「わが立つ杣」は比叡山を指します。国家鎮護の山である比叡山延暦寺の開祖・伝教大師最澄の意志を継いだ、自身の使命を高らかに詠んだ歌ですね。

 

前大僧正慈円は藤原忠道の六男です。14歳で出家し、37歳で天台宗の最高職である座主になります。

日本初の歴史論集である「愚管抄」の作者です。

 

 

96、花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり

はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり

 

入道前太政大臣

桜の花をさそって吹き散らす嵐の吹く庭に、雪のような桜吹雪が舞っているが、本当に古(ふ)りゆくものは雪ではなく私自身なのだなぁ。

 

やーさん

とても美しい桜が舞い散る様子を眺めながら、ふと自身の老いを自覚する、一抹の儚さを感じさせる歌ですね。桜の花を雪に見立て、「降る」と「古る」を掛詞にするなど技巧が光る歌となっています。

 

入道前太政大臣は藤原公経(きんつね)で、藤原定家の義弟にあたります。

京都北山に西園寺を建て、その家を代々西園寺と呼ぶようになったので、西園寺公経とも呼ばれます。この西園寺は後に足利義満が譲り受け、鹿苑寺(金閣寺)となります。

 

 

97、来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに やくやもしほの みもこがれつつ

 

権中納言定家

松帆の浦の夕凪のころ、焼かれて焦げる藻塩のように、私の身もいくら待っても来ない人を想い、恋焦がれているのです。

 

やーさん

いつまで待っても来ない想い人を待ち続け身を焦がす女性の情感を、夕方の海辺の情景とともに描いたとてもロマンチックで繊細な歌です。まつほの浦は淡路島北端にある海岸で、松帆浦の「松」と「待つ」が掛詞となっています。「焼く」や「藻塩」は「こがれ」との縁語であり、「こがれ」を導きだすための序詩となっています。

 

権中納言定家は藤原定家です。平安末期の大歌人である藤原俊成(83番歌)の子です。

百人一首の撰者として有名ですが、新古今和歌集、新勅撰和歌集の撰者の一人でもあります。叙情的な歌を得意とし「有心体」という表現スタイルを創りました。

 

 

98、風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

かぜそよぐ ならのおがわの ゆうぐれは みそぎぞなつの しるしなりける

 

従二位家隆

風がそよそよと吹き楢(なら)の葉を揺らしている。ならの小川の夕暮れはもう秋の気配であるけれど、禊祓(みそぎはらえ)だけがまだ夏であることの証なのですね。

 

やーさん

藤原道家の娘が、後堀河天皇の后として入内する際に調進された屏風絵に添えられた歌です。ならの小川は上賀茂神社の御手洗川のこと、この歌で詠まれる「みそぎ」は「六月祓(みなづきのはらえ)」であり、川で身を洗い罪穢れをはらいます。この行事が終わると次の日から暦上では秋となります。とても清浄な雰囲気の歌ですね。

 

従二位家隆(藤原家)は権中納言藤原光隆の次男です。

藤原俊成に歌を学び、新古今和歌集の撰者の一人でもあります。

 

 

99、人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

ひともをし 人もうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは

 

後鳥羽院

人のことが愛しくも思われ、また恨めしくも思われる。味気ない世の中だと思うが故に、悩んでしまう私には。

 

やーさん

貴族の時代から武士の時代への過渡期の天皇の御歌です。深い悩みや憂い、そして人への愛憎、繊細な自身の心理が描かれています。

 

後鳥羽院は高倉天皇の第四皇子です。平氏が安徳天皇を奉じて西へ下った年に5歳で即位し、19歳で御位を譲り院政をしきました。

源氏から政権を取り戻そうと「承久の変」を企てますが敗れ、隠岐へ流され在島19年で崩御されました。

 

 

100、百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なほあまりある むかしなりけり

 

順徳院

宮中の古びた軒端のしのぶ草を見るにつけても、偲んでも偲びつくせないほど思い慕われてくるのは、古き良き昔のことです。

 

やーさん

「百敷」は百千の石を敷き詰めた宮殿のことで、皇居を意味します。鎌倉幕府が成立して24年、天皇や貴族中心に栄えた時代はとうに過ぎ去り、宮中の軒端にしのぶ草が垂れている。朝廷の権威を守ることに尽力された順徳院のやるせない想いが伝わってくる歌ですね。この歌が詠まれた5年後に、父である後鳥羽院と共に「承久の変」を起こされました。

 

第八十四代順徳天皇は後鳥羽天皇(99番歌)の第三皇子です。

14歳で即位、「承久の変」に失敗した後は佐渡へ流され在島21年、46歳で崩御されました。

 

 

以上、91番から100番歌までのご紹介でした!

 

平安時代の貴族たちが詠んだ、すばらしい歌を集めた「百人一首」。

貴族の栄華の時代と文化が集約されています。

 

遡ってみると始めの2首は天智天皇と持統天皇の御歌であり、この二人は天皇を君主と仰ぐ古代国家を盤石のものとされたお二人であると言えます。

そして今回紹介しました最後の2首は、王朝文化の終わりを嘆く後鳥羽院と順徳院の御歌となっています。

 

こういった歌の並びを見ると、撰者である藤原定家の歴史観が見てとれます。

後鳥羽院、順徳院の御霊を鎮魂するための歌集であり、そして王朝文化の創始と終焉を伝える歌集である「百人一首」。

 

古き王朝時代の優美な和歌は、これから先の時代においても、いつまでもいつまでも色褪せることなく人々の心を打ち続けることでしょう。

 

あなたの中に一つでも心に響く歌が残り、これからの人生の彩りの一つになればいいなと願っています。

 

 

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