【日記】2020/3/4 罪を憎んで人を憎まずって難しいけど、どす黒い感情の渦から外れて俯瞰で見るって大切。

【日記】2020/3/4 罪を憎んで人を憎まずって難しいけど、どす黒い感情の渦から外れて俯瞰で見るって大切。
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どうも、やーさんです。

今日はいつもより早くマクドナルドでモーニングコーヒータイムでした。

理由は次男坊の発熱によって保育園への送りがなくなって、いつもより早く出たから。

人少ないであろうという期待は外れたものの、いつもと違う電車で通勤するのって ちょっと新鮮ですね。

たいがい通勤電車って同じ顔触れですから、見たことない人が多いと、それだけでいつもと違う朝という感じがします。

 

通勤中は本を読もうか、Twitterを見るか迷うのですが、今日はTwitterを選択。

 

目に飛び込んできたのが、

「トイレットペーパーデマを流したのが当組合職員と判明しました」#米子医療生協 が謝罪コメント

というニュース。

 

「ほー、こうやってデマの発信元まで判明するもんなんやなぁ」とか、「米子医療生協もよく発表したな、これ」とか思って読んでたんですよね。

 

で、リプ欄なんかも追っていくと、どうもこの職員に該当するであろう人物が特定されていて、デマツイートをスクショされた画像が貼ってありました。

 

そのリプを見て

「あぁ、こうやって晒されてしまうんやなぁ、ネット社会怖っ。」

と思ったんですが、そこから先さらに読んでいくと怒れる人たちの罵詈雑言の嵐。

 

ここで書くのも憚られるようなひどい言葉がたくさん飛び交っていました。

(それらのツイートをここに貼るのは簡単なのですが、見るのもツライので貼りません。)

 

 

 

今回のトイレットペーパーデマは確かに悪質で、全国的にスーパーやドラッグストアからトイレットペーパーやティッシュ、生理用品に至るまで買い溜めや買占め、転売が行われて本当に必要な人が買えないという事態に陥りました。

 

わが家も現在トイレットペーパー残数が1ロールなので、ビクビクしているのですが、だからと言ってそこまでデマを広げた人を憎み暴言をぶつけるべきかというと、そうは思いません。

トイレットペーパーが無いからといって死ぬわけじゃないでしょ?

なんだって代わりになるものはあるでしょう?

「こいつは悪いやつだから叩いて良い」なんて気持ちは持つべきではない、とぼくは思います。

 

デマを信じて、考えなしに行動に走った人。

先に行動した人たちの動きから、これは在庫が枯渇するぞと感じて買いに走った人。

需要と供給のバランスの崩れを察知して転売に走った人。

社会を流れるどす黒い大きな渦を助長するかのように、風説を流布する人たち。

 

色んな要因が重なり合って今回の問題は全国的に広がりを見せました。

 

ネットが広く隅々まで張り巡らされ、誰もが発信者となりえて、何気ない一言が一瞬で広がっていく世界です。

情報の受け取り方=ネットリテラシーが重要!!なんていうのは今更感があって言うのも憚られますが、でも結局はそれしかないんですよね。

 

 

だいたい元々のデマツイートは何が目的だったのか?

 

本当に「デマ」として流して社会が混乱するのを見たかったのか?

それとも自分で考えた結果、これからこういうことが起こると思うからみんな気を付けようー!という自分の正義に基づいた発信だったのか?

 

ぼくはデマツイートとされる文面を見た時に、後者じゃないかなと感じました。

 

結果だけを見ると、「お前のデマツイートのせいで社会がえらいことになってしまったぞ!」と言われるのは仕方がないことなのかもしれません。

それによって、相応の責任を負わされるのも仕方がないことでしょう。

発信をするということは、そこには発言者の責任が付いて回るのですから。

 

ただね、やっぱり発信者の意図を正確に読み取ろうとせず、叩ける対象が出てきたからとことん叩いてやろうって、暗い感情のままに叩くのはいかがなものかなと思うんですよね。

 

 

っていうか、デマツイート発信者のアカウントを追ってみたらもう削除されている様子でしたが、同じアカウント名で、ご丁寧にIDまで一文字違いのなりすましが出てきました。

そして憎まれるであろうツイートをしていて・・・。

こういうことする人がほんとにいるんですね。

暇人かよ。

憎しみを増長させて何が楽しいの?

 

もう朝から落胆ですよ。

まぁ、見たもの負けですよね。

やり場のない負の感情をここでぶちまけてます。

読んでくれている方、こんな文章読ませてごめんなさい。

 

 

ここからは、自戒の念も込めて。

 

社会が負の感情で満たされている時。

どす黒い負の渦の中から出てきて、全体を俯瞰で見て、何を言うべきか言わざるべきかを考える。

対象を叩くのではなく、その事象から何を学ぶべきかを考える。

そういったことに対して時間であったり頭を使う方が有意義だとぼくは考えます。

 

うーーん、何か怒りに近い感情で書いてしまったので、上から目線でイヤですね。。すいません。

 

 

ちょっと先人の知恵と言葉を借りましょう。

 

「罪を憎んで人を憎まず」

 

聖書にも出てきて、よく聞く有名な言葉ですが、なかなか実際にそう考えるのは難しいものです。

やはり罪を犯した人物に対して憎しみや負の感情はぶつけたくなるものです。

 

もう少しこの言葉を深堀りしてみましょう。

春秋時代の中国の思想家・哲学者で、儒教の開祖である孔子の言葉にも近しいものがあるようです。

 

「孔叢子(偽書という説もあり?)」の中にある「古之聴訟者、悪其意、不悪其人」という言葉。

昔の裁判の際の事例から、裁判の際の心得を示しているようです。

意味は「(昔の裁判所では)訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった」。

この言葉の後に「罪を犯した者がいれば、生かすに足る所以を求め、その上で生かすに足る部分が無ければ刑を執行した」と続くそうです。

 

罪を犯した動機や背景に目を向けることが大事であり、罪を犯した人を憎み心をとらわれるべきではない、ということだと思います。

 

 

どんな行動・言動においても「みんながやっているから」なんて理由で「右に倣え」みたいに、考え無しでやらないこと。

一旦ちゃんと自分の頭で考えること。

そして自分の周りや社会に対して、どうすればプラスになるかを常に考える。

 

これらのことを大事にして暮らしていきたいなと思います。

 

書きなぐりの文章でしたが、今日はここらへんで。

ではでは。

 

 

 

 

やーさん

最後までお読みいただきありがとうございました!

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